最初に歌を聴いてくれたのは、ファラミアさんだった。
彼は音楽を好んでいた。
故に、それというのも多分自然なことだったのかもしれない。
たまたまわたしの鼻歌を聴き止めてくれたのも、何度目かの会話の時間の一時。
ファラミアさんは何故だか、わたしの披露するものはみな気に入ってくれたし、その内の二つか三つは既に覚えてしまった様子だった。
流石というのか、何というか。相変わらず恐れ入る。
わたしはそんなことを思い出しながら、ふと、ファラミアさんについて考える。
初めて会った最初の時こそ一瞬の冷たい印象が翳ったものの、実際には、彼はその真逆である。
穏やかで思慮深く、あたたかく、それでいてボロミアさんとはまた違った強さを携えている。

だからこそ、わたしは、ファラミアさんのことを心配した。
一度だけ彼が、真っ青な顔をして寮病院近くの門前で座り込んでいた時がある。
その時のことを思うと、今でも申し訳ないような気持ちでいっぱいになる。何故って、わたしでは、彼に何も与えられないからだ。
それだけは、なんとなく漠然と感じていた。
出会ってからそう時間も経っていない、重ねた会話の数も決して多くはない。わたしは彼を、まだ何も知らない。
それにも拘わらず、その人が何を欲しているのかを知っている気がした。
何故かは知らない、ただそう感じて、ただそう思っただけのことだ。

わたしがゴンドールに戻ってくるなら、またファラミアさんと言葉を交わしたい。
歌を贈って、別の形でその人を支えられたらいいと思う。
彼の望むものがわたしで叶えられないなら、ならば、今までそうであったような時間で、少しでも心の安寧を保ってほしい。
思い上がりでしかないのは知っている。それでも、せめて。
そこまで考えて、わたしはこれからのことを思い巡らす。裂け谷へと発つにあたり、わたしはしばらくこの地を去ることになる。
そして、この先頼るはただ一人、わたしを庇護してくれている彼の人だけになるだろう。



最初に折り紙を褒めてくれたのは、ボロミアさんだった。
彼は、音楽には然程関心がある方ではない。
それというのは、一度だけ訊ねてみたことがあるからだ。

「ボロミアさんも、ファラミアさんみたいに音楽はお好きですか?」
「いや」

彼の答えは、ごくごくあっさりとしたものだった。
「私は、歌や音楽に今まで関心を向けたことはほとんどない」。
何故ならそれは、自分に必要とは思えなかったからだと、言葉少なにその人は言った。
わたしは訊き返すこともなく、ただ黙ってその意味を咀嚼した。
それはごく単純な、明快でさえある答えのように思えた。
つまりボロミアさんにとって、歌というのは、ゴンドールを護っていくために必要な力とは程遠かったということなのだろう。
何となく、わたしはそう思った。
ボロミアさんは文学や音楽よりも、剣の方を好んだ(或いは、そうせざるを得なかった)ということなんだろうな、と。

そしてそんな白の塔の大将様が、気まぐれに作った紙風船に興味を示すとは正直思っていなかった。
なので、わたしが作ったそれに息を吹き込む様を目の当たりにした時は、微笑ましいなんて思ってしまったものだ。
わたしは思い出し笑いしながら、その時の記憶を確かめ直す。中つ国で彼らと過ごした時間を、わたしは忘れたくないのだ。
だから時々、記憶を思い返し、それらを焼き付け直していく。
わたしは彼らが好きだったし、多分これから先もそうなのだろう。




夜空は暗く、星もまばらにしか見えなかった。
黒雲が流れて、その切れ目から覗く分しか空が顔を出さないからだ。
それでもひやりと冷えた空気の温度は、心を落ち着けるのに丁度良かった。
オスギリアスの石造りの地面に腰を下ろしていると、様子を見に来てくれたのらしいボロミアさんに声を掛けられた。
「寒くはないか」、「明日からは馬旅だ」、「今日は早めに休んだ方がよい」――。
初めてこの国を出るわたしを気遣うかのように、普段通りの調子で彼はそう口にした。
わたしが肯き、もう少ししたら休みますと伝えれば、ボロミアさんもまた肯きを返してくれる。
彼が去った後も実際、わたしはまだ立ち上がらずその場に留まっていた。空と、そこから見える嘗ての街並みを見ていたかった。

少しすると、入れ替わりのようにファラミアさんがやってきた。
「夜風に当たり過ぎてはいないか」、「今夜は星も少ない」、「そろそろ中へ戻らぬか」――。
言葉は違えど、中身はボロミアさんと似たものだった。小さく笑うと、彼は首を傾げてこちらを見る。
何でもないですと、もう少ししたら眠りますよと伝えれば、そうした方が良いと言って彼もまた去って行く。
そうしてわたしはオスギリアスの夜の中で、再び独りになった。
彼らのことと、この国のことをもう少しだけ考えてみる。



自分でも驚くほど、この国とここの人たちが好きだった。
どうしてだろう。理由を探ろうとしても分からない。
まるでずっと以前から知っていたかのような気さえする。初めて訪れたはずのこの国を。
彼らは彼らなりに戸惑っただろうけれども、それでもわたしをここに置いてくれた。
わたしという存在を受け入れてくれた彼らに、自分は何を返せばよいのだろう。

――、 』

歌声は、小さく細く、誰にも届かないようなものだった。
それでも気付いたら、口からそれがこぼれ出ていた。
夜の空気の中に溶けて消えていくようだった。それで構わない。
今できることなど限られていた。だからせめて、できることをしたいのだ。



そうして一つ、歌を終えた時、僅かに雲間から月明かりが差した。
ほんの十数秒くらいのことでしかなかった。太陽と違って、そう明るくなったわけではない。
それでもふわりと、何か小さなものが頭上を舞ったのがそれのおかげで判った。
しばらく外に出ていたので、そこそこ暗がりには目が慣れていた。
その何かを目で辿り、地面に着地したのを指先で拾い上げる。
やわらかなそれは、どう矯めつ眇めつしてみても、黒い羽毛のようにしか見えない。
首を巡らせてみても、雲は既に月を覆い隠している。鳥は、夜も飛ぶのだろうか。そういうものも、いるかもしれない。
ぼんやり思っていると、風が吹いて、羽毛がそれに攫われ再び空に舞い上がった。後には何も残らなかった。
あるのは夜の色と温度ばかりだった。

そんな中で、わたしはいつの間にか、ある一人の人物について思い浮かべている。
それは、敢えて今までどうこうと思うことをしてこなかった人である。
会ったことも、言葉を交わしたことも、ほんの数回しかない。
その記憶の中で、彼の人は黒衣を――そう、こんな夜の色のような、或いは、先程の羽毛のような色のものを――纏っていて、わたしにはそれが、何処か拒絶を思わせるもののように見えた。

実際、その数少ない謁見で、わたしの中でのその人は頑なで、何か触れ難い印象を残している。
歳を重ねれば、人というものは多かれ少なかれ、そうなってしまうものだろうか。
そしてそれは、その人物が位している地位を思えば、当然なのかもしれない。
或いは他に、何がしかの理由があるのかもしれない。
自分はそれを知ろうとすることはないし、知ることもないままだろう。

わたしとその人は、接点も何もなく、今までもこれからも、きっと何もないまま終わる。
それが何だとは言わない、お互い、それでいいのだろう。
けれどその人物は、ボロミアさんとファラミアさんにとっては大切な人である。
そしてわたしは、……彼のデネソール候から許しを与えられたからこそ、今日までこの地にいることができた。
そんなことを思った。何故なら、その人もまたこの国の一部であり、わたしの好きな人達のうちの一人に違いないのだ。

もう少し時間があれば良かった。
彼ら執政家を知るための時間が足りなかった。この国を知るのに、もっと時間が与えられていればよかったのに。
裂け谷へ発った後の自分が、ここに戻ってくるかどうか、よく判らない。
そもそもわたしは、いつかは在るべき場所へ還るのだろう。

自分が忘れられていくのは構わなかった。
記憶というのは薄れていく。それを、今の自分なりには理解していた。
ただ、もしもこの国が、わたしの残滓をほんの一欠けらでも残してくれるのであれば――。
どうか、覚えていてはくれないだろうか。歌ったうたの、ひとつくらいは。
それだとわたしは嬉しい。






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